大きな手で慎重に封を切り、熊野はさっと文面に目を通す。
「先生、『川、足音、忘却』に纏わる話がきています」
「おや、そいつは恐ろしい話のようだね、ぜひお聞きしたいなぁ」
カワリは笑むと、助手に先を読むよう促した。
「それでは…読み上げます」



水の足音




夜中に奇妙な音で目が覚めた。
ぴちゃり、ぴちゃり。
水の音だろうか。
ぴちゃり、ぴちゃり。
段々と近付いているような気がする。
私は布団の中でじいっと息を殺した。
ぴちゃり、ぴちゃり、ぴちゃり…
音はどうやら通り過ぎたようだった。
それでも恐ろしくて一睡も出来ない。
朝になり母に呼ばれ、ようやく生きた心地がしたのを覚えている。

「なんなの、これは」
部屋から出て母の指差す方へ目をやり、どきりとする。
廊下に小さな水溜りがあった。
その水溜りは庭から点々と続き、私の部屋の前の廊下を通り、仏間に辿り着いて消えていた。
「一体誰の悪戯かしら。あんた知ってる?」
「知らない。でも…夜中に水の音はしていたよ」
「水の音、ねぇ…」
母は腕を組み何か考え込んでいるようだった。
小さな水溜りは朝日を冷たく反射している。
「早く拭いてしまおう」
「…ええ、そう、そうね…」
片付けに厳しい母がなぜ渋るのか分からなかったが、とにかく早く水溜りを消してしまいたかった。
あの水音を忘れてしまいたかった。
何度も何度も廊下を乾拭きして、私はようやく恐怖を拭い去ることができたのだった。

その日以降、水音が聞こえることも水溜りが現れることもなく、私はすっかりこの夜のことを忘れていた。

それから、何十年と月日が流れた。
母が亡くなり家を整理していた時のことだ。
仏壇の裏に小さな箱が隠されているのを見つけた。
慎重に包みを解くと、中からは小さく折りたたまれた紙片が出てきた。
一度濡れたのだろうか、文字は滲みて紙同士はくっつきとても読めたものではない。
それでも母からの最後の言葉であるように思え、必死になって小さな紙片と格闘を続けた。
どうやら、それは母の恋人からの手紙らしかった。
移り変わる社会への不満と不安、鬱々とした文面の最後には日時と場所が記されていた。
―愛し君よ、私と心中いたしませう―
そんな文章を、添えて。
唐突に、私は幼い頃に体験した恐ろしい夜を思い出した。
水の音、仏間に続く水溜り、遠くを見つめる母の横顔―
あれは、母との心中を願った男がやってきた跡だったのではないだろうか。
独り入水した男が、母に会いに来ていたのだろうか。
そして、母はその男だと気付いていたのだろうか…

今となっては確かめる術は何も無い。
亡き母のことを想う時、このことが頭を過ぎっては考えてしまう。
母は何故、男の誘いを断ったのか。
男は、何者だったのか、と。





文面を読み終えて、熊野は長く息を吐いた。
届いた手紙を読ませられることには慣れたが、何の相槌も反応もないとなると、本当に聞いているのか不安になる。
安楽椅子に深く腰掛けた変人は、ふかりふかりと煙管の煙を燻らせている。
「先生、いかがでしたか?」
「独りでする心中は寂しかろうねぇ。いやぁ心中お察しするよ、なぁんてさ」
ケラケラと笑い出す男に、熊野は頭を抱えて低く唸った。
「先生、では私の堪忍袋の緒が切れそうなことも察して頂けておりますよね?」
「いやいや熊野君、助手である君の懐の広さは僕は十分分かっているよ」
にこやかに澄んだ目をした初老の変人紳士を前に、熊野は通算何度目になるか分からない溜息をついた。
茶を淹れてきますと部屋を出ていった助手を見送り、カワリは筆を手に机に向かう。
「愛し君よ、私と…ふふ、臆病な奴だと君は笑うだろうねぇ…」
誰にともなく呟いて、するすると水音の怪を紙に記していった。