銀杏寺
この坂を登った先に、見えますでしょうか?あの銀杏の側にかつて寺がありました。
駆け込み寺と呼ばれ、貧乏人や行く当ての無い者が門を叩けば、誰でも迎えておったそうです。
ある日一人の女が寺に逃げ、坊様はそれを匿いました。
理由は聞かなかったそうです。皆言い難い苦労をしてここに来たのだろうと。
やがて、女は坊様の妻となり子をもうけました。
ところがこの子はいつまでも赤子のまま、大きくなりません。
医師にも見放され仏に祈りましたが、何の告げもありませんでした。
嘆く坊様にある日女は言いました。
「今まで言えず申し訳ございません。その子も私も、人ではないのです」と。
女は、元は別の町に聳えていた大銀杏でした。
その町が火事に見舞われた際、生き延びるためと必死に人の姿となり、逃げてこの寺へ辿り着きました。
「あなた様と夫婦となり、私は銀杏であることを忘れかけておりました。人として生きようと思っておりました。
しかし、そうはいかないのです。あるべき姿に戻るべき時が来たのです」
女が赤子に息を吹き掛けると、たちまち無数の銀杏の実になりました。
「どうか私とこの子を寺の裏に埋めてください。皆の飢えを凌ぐ糧になりましょう。黄金に輝き、あなた様を慰めましょう」
坊様はさめざめと泣き、言われた通り妻と子を埋めました。
するとたちまち大きな銀杏が生え育ち、寺にそうっと寄り添いました。
それから先の戦で打ち壊されるまで、この寺は銀杏寺と呼ばれ、火事や飢えから人々を救い続けた…との話です。
案内人が語り終え石段を上り始めると、熊野は何が引っかかるのか首を傾げていた。
「寺が火事になった時、どうして銀杏は再び逃げなかったのでしょうか」
「察しが悪いねえ、熊野くん。そこに愛する夫がいたからさ」
「…ではその坊が逃げ出していたら」
「そいつも無いねぇ、熊野くん。妻と子を放って逃げられなかっただろうさ」
「先生に情を語られると複雑です」
「そうかい?」
カワリは口の端を軽く持ち上げて、煙管の煙をぷかりと吹いた。
天を仰げば黄金の雲が、彼らを迎えて見下ろしていた。