氷花
「今日も暑いわねぇ。ここに来るまでに干乾びてしまうかと思ったわ」
夫人はそう笑いながら、勧められる前に席へ腰掛けた。
「わざわざ足を運んで下さりありがとうございます」
「よして、カワリちゃん。堅苦しい挨拶なんて。私とカワリちゃんの仲じゃない!丁度この先に行く用があったからお喋りしていこうと思ったの」
小太りでおっとりとした外観とは裏腹に、舌は機敏に動くよう。
そんなに話せば喉も渇くはずだ。すぐ飲み干された硝子杯に熊野は冷茶を注ぎ足した。
「ほらカワリちゃん、この前面白い広告を出していたでしょう?」
「おや御存じでしたか」
「御存じよう。私も新聞くらい読みますわ。でももう少し大きな記事にされた方がよろしくてよ?眼鏡をこんなにしなければならなかったのですもの」
「それはそれは失礼致しました。しかし、あのような内容は、片隅にあるから面白いのですよ」
カワリは人差し指をつい、とテーブルの角へと滑らせる。
「目立たず、しかしふいと目が留まる。はてそういえばあの時の。そうやって記憶から掘り起こしたものが、密やかな怪しき話というものですよ」
なるほど、広告代をケチったわけでは無かったのか。熊野は妙に感心した。
夫人も同じようで、「まあ素敵!」と手を叩いた。何がどう素敵なのかは知らないが。
「ではカワリちゃん。私も記事を見てはたと思い出したお話があるの。聞いて下さらない?」
「ええもちろん。お聞かせ下さい」
「えーでは、コホン。何から話せばいいかしら?そうねぇ…そう、このくらい暑い日が続いていたわねぇ…」
窓の向こうの入道雲を眺め、夫人は目を細めた。
それは、そう。私がまだ小さな女の子だった頃。
ふるりと震えて目が醒めた。
寒くて、寒くて。あんまり、寒くて。
薄い布団に蓑虫のように包まって、寝ぼけた頭ではてなと思ったわ。
だって昨日まで夏だったじゃないかって。
天井から吊るされた蚊帳、煙を燻らせる線香。
その全てが真白に覆われている……
雪が、積もっていたの。
障子を開けたまま寝ていたから、部屋の中にも積もってしまったのね。
でも、雪よ?夏なのに、雪なのよ!
まだ夜は明けきってはいないみたい。
藍色の空に紫の雲が帯のように流れていて、部屋の中の雪はぼんやりと白く光っていたわ。
綺麗だったわ……けれど、とても凍えて。
恐る恐る畳の上の雪に触れてみたら、確かに、冷たい。けれど融けない。
細かな六花の粒たちは、掌に掬っても崩れず咲いていた。
私は白い息を吐きながら、両親に知らせなくちゃと思ったわ。
だってこんなこと初めてなんだから!
掌に雪を乗せたまま駆け出そうとした、その時。
すうっと光が部屋に射した―朝日。
途端。
しゃらららしゃらり、しやらららしゃららり―
一面の雪は舞い上がって、軽やかな音を立てながら部屋を飛び出したの!
しゃらら、しゃりら、しゃらららら。
花吹雪のように、銀色の風のように、光を放ちながら、遠く遠くへ飛んでいく……
煌めきが遠ざかると、息を潜めていた夏の暑さがじわりじわりと戻ってきた。
布団を床に落として、私はただただ、朝焼けの彼方を見上げていた……
「起きてきた親に話してみたけれど、そんなことは無かったと言われるし、夢を見たのよと言われるとそんな気がするし… 不思議ね、確かに見たのに、やっぱりそうと確信出来ないの」
夫人はそう言うと、ふう、と小さく息をついた。
ミンミンジワジワ、蝉の声が部屋を満たす。
「カワリちゃんには分かる?」
「真夏の融けない雪ですか…はて…」
「それも勝手に来て勝手に去ってしまうのですもの。気まぐれには困ってしまうわ。こんな暑い日にこそ来ればいいものを、むしろ出掛ける羽目になるなん―あらいけない!」
扇子をぱんと畳んで夫人は立ち上がる。
「随分話しこんでしまったわ!そろそろ行かなくっちゃ!ありがとうカワリちゃん楽しかったわ」
「こちらこそ素敵なお話をありがとうございました。今度ぜひお礼をさせて下さいね」
「うふふ、期待しているわ。それでは御機嫌よう」
夫人はぱたぱたと賑やかな足音を響かせ部屋から出ていった。
「それにしても、真夏の雪とは一体なんだったのでしょうか」
「ふふふ、いつでもかき氷食べ放題だ、と思ったでしょう?熊野くん」
「思っていません!」
熊野の怒声を涼しく流し、夫人の乗る車を窓から見送っていたカワリは、椅子に戻らず掛けていた帽子に手を伸ばした。
「お出掛けですか?」
「ええ。話を聞いたら涼みたくなりましてね」
カワリは助手に悪戯めいた笑みを向ける。
「ねえ熊野くん、あいすくりんでも食べに行きましょうか?」
カワリの提案に、熊野は珍しく口を挟まなかった。